立ち止まり、受け入れよ
子供と過ごしていると、自分は誰かに試されているのではないかと思うときがある。
例えば、怒りの衝動に駆られたとき。もちろん、そういうことをすれば人は怒り出すんだよ、ということを分かってもらうためにも、ストレートに怒りを表に出す方が良いときもある、もちろん。
だが、ぐっと怒るのを堪えたほうが良いときもある。特に子供が感情的に取り乱しているようなとき、大人が怒り出すと、状況はさらに悪化したりする。
5歳の息子の癇癪。まるでこの世の終わりかのような絶望を全身で表現し、嫌だと絶叫する。論理を超越したような理屈を主張して泣き喚く。おもちゃを片付けよう。お風呂に入ろう。出かける時間だよ。ご飯の時間だよ。寝る時間だよ。きっかけは些細なこと。その瞬間、爆発する。その小さな体から発する満身の怒り、嘆き、罵り。
機嫌の良いときの息子。地上のありとあらゆる至福を詰め込んだかのような笑顔と可愛らしい声。夢中で何が好きかを語り、笑い、歌う。そう、機嫌さえ良ければ。繰り返す。機嫌さえ良ければ。
大人は、絶え間ない日々の疲労や焦りを言い訳に、常にゴールを一直線に目指したいものだし、余計なことは何もしたくないし、もう無意識のうちに考えることすらしたくなかったりもする。そんな大人にとって、子供の癇癪は驚くべき理不尽であり、新たな感情の破裂の導火線にもなる。なぜ? 今? なぜ!
大人が、もしここで大声を出したり、相手を怯えさせるような威嚇や脅しをすれば、ひとまず目的を果たすことができるのかもしれない。いや、もう、そうしてしまいたい衝動が抑えきれなくなっているのではないか……いやいや、待て。落ち着ついて。ここで感情的になって対抗したとして、本当に目指すところに辿り着けるのだろうか。でたらめな力と力の衝突は、でたらめな場所に飛ばされてしまうだけではないだろうか。
育児書やアンガーマネジメントなどでよく見かけるかもしれない。相手に何かを伝えたいとき、まず相手の気持ちに「共感」することが大切だ、とかなんとか。だが、これは簡単そうで難しい。相当難しいと思う。まず、自分の中にわき起こる苛立ちや焦りを克服しなければならない。そして、ただの我がままにも見える相手の感情に対し、さらに辛抱強く距離を詰め、共感を示さなければならないのだから。
そんな陳腐な、と思うなかれ。最善かどうか、分からない。だが、それによって開ける道があると思う。癇癪を起こす子供に対し、怒り出したい気持ちを抑え、落ち着いて、ゆっくりと優しい声で、相手の気持ちに寄り添ってみるということ。それは余計に時間のかかることかもしれないし、そもそも時間に余裕のない場面だったりもする。それでも、試す価値はある。思い通りにならないことを受け入れるのは子供だけではない。まず大人が現実を受け入れる必要があるのだ。今あるこの現実に、立ち止まり、受け入れよ。
それでも子供は簡単には落ち着かない。子供だって分かっている。そうきたか、と。その手には乗らないぞ、と。なかなか距離は縮まらないかもしれない。だが、人の気持ちには波がある。ほんのちょっとした、なんだか分からない何かで、風向きの変わるチャンスが訪れることもある。少しでも歩み寄って、一緒に現実を受け入れるのだ。……とかなんとかいってみたが、そんなふうにうまくいくとは限らない。だが、それでも良いのだ。何かを諦めれば、別の何かが見えてくる。お互いに思っていた結果とは違うかもしれない。でも、でたらめな場所に飛ばされるよりは、いい。