2019.10.12

台風の夜

子供たちは夜の8時までに寝るようにしている。今夜は8時を過ぎても息子はまだ起きていた。子供が寝たらPrime VideoでThe Wireのシーズン4の続きを観ようと思っていた。はやく寝てほしいと思った。さあ、寝ようか。いや、眠くない。このやり取りを何度か繰り返す。

NetflixにTop Boyというドラマがある。ロンドンの悪い人たちが悪いことを頑張るっていう、適当にいえばそういう話だが、なかなか面白いところがあって、割とすんなりシーズン1から最新のシーズン3まで観ることができた。シーズン1や2でギラギラとしていた主人公たちが、数年後の舞台のシーズン3では、随分と情けない感じに年を取っていて、衰えていて、にもかかわらずスマートな若者を相手に戦わなければならなかったりで、何だかそのやるせない感じの描かれかたが秀逸だった。若さになんて勝てるわけがない。年を取るって、そういうことだろう。体もあちこち痛くなる。今、私は右腕と肩のあたりに痛みがある。そのうち治るだろうと思って放っておいた。どれくらい経過したのだろう、ちっとも治らないってことにある時気づく。悪化している。これ、いつから痛いんだっけ?

適当にいえば、Top Boyと少し似たようなところもある、というかTop Boyのほうが後発か。The Wireというアメリカのドラマのシーズン4を先日から観始めた。さて、今夜続きを観るには、まず子供を寝かしつけて、というところで、息子がなかなか寝てくれなかった。

外は荒れた風、雨。だんだんと激しくなる。息子がどうしても眠くないと主張するので、諦めて、ナインタイルというカードゲームを出してみた。カードの模様を眺めているうちに勝手に眠くなるかもしれないと、根拠もなくそう思った。最初、一人だけでやらせていたら、二人で競争したいという。でも、負けるのは嫌だという。10秒のハンデにしたらちょうど良くなったのだが、今度は勝てることに高揚し、眠くなるどころではなさそうだった。雨風の音も忘れ、結果、息子は25勝5敗でスッキリした様子。ようやく布団に向かってくれた。

2019.5.19

漠然とした何かで

物事が明確で具体的であったりすることが、人の心から不安を取り除くために必要とされることがある一方で、漠然とした何かで、前向きな気持ちになれることもある。

どうしてもパリに住むつもりだ、フレデリックはきっぱりと言った。

「パリでなにをするつもりなの?」

「べつに、なにも」

その返答に驚いて、ではいったいなにになるつもりかと夫人は尋ねた。

「大臣」とすかさずフレデリックは答えた。

フローベール 太田浩一訳『感情教育』
2019.4.16

軽さ

空っぽのバケツと飛行する。(カフカ「バケツの騎士」)

そういうわけで、私たちもまた、私たちのバケツにまたがって、新たな千年紀にむかってゆきましょう、何一つ、私たちが自分で持ってゆけるもの以上のものがむこうで見つけ出せるなどとは期待しないで。

カルヴィーノ 米川良夫訳『アメリカ講義』「軽さ」より
2019.4.13

節度を保つこと

先日のこと。8歳になったばかりの娘が4歳の弟とふざけ合っていた。大騒ぎしている。家の中をドタバタと走り回る。素っ頓狂な声が響き渡る。近隣には騒音だろうし、怪我だってするんじゃないかとヒヤヒヤする。あまりとやかく言いたくはないが、しかし黙っているわけにもいかない。注意してみる。

息子は、私の言葉が全く聞こえていない様子で、調子を変えることなく騒ぎ続けている。娘の方は、楽しい気分に水を差されたのが気にくわなかったのか、強い調子で反撃してくる。「とうさんだって、いつもふざけてるだろ」とか言ってくる。

「ふざけることは悪いことじゃないよ。ふざけることがダメ、って言っているんじゃなくて・・・・・・節度を守ることが大切なんだよってこと。」

「ハァ? ナニソレ? テンキヨホウ?」

「?・・・・・・いや、それ湿度だろ。」

娘は「セツド」という語感が面白かったらしく、「セツド? セツド? なんだそりゃ、アハハハ」とか言って、怒ったり笑ったり繰り返す。

2019.2.28

言葉を、その源泉に引き戻そうとするもの/詩的

歴史的に考えていくと———もちろん、この例は適当に選んだもので、世界各地に類例が見いだせるでしょう———、言葉は抽象的なものとしてではなく、むしろ具体的なものとして始まったことが分かります。私の考えでは、「具体的」というのはこの場合、「詩的」というのとまったく同じ意味です。例えばdreary「もの寂しい」という言葉について考えてみましょう。drearyという言葉は「血まみれの」を意味しました。同じようにglad「嬉しい」という言葉は「磨き上げた」を意味し、threat「脅し」という言葉は「険悪な群集」を意味しました。現在では抽象的なこれらの言葉も、かつてはどぎつい意味を持っていたのでした。

[…略…]したがって言語の中では、(言うまでもないことですが)単語はもともと魔術的なものとして始まった。light「光」という単語が光り輝くように感じられ、dark「暗い」という単語が暗いものだったときがきっとあったのです。

[…略…]言葉はもともと魔術的なものであり、詩によってその魔術に引き戻されるのだという、この考えかた———それは、もちろん私のものではありません。他の作家たちにも見いだされると確信しています———は真実であると思います。

J.L.ボルヘス 鼓直訳『詩という仕事について』
2019.2.11

集中と放心

樹木と奇岩に覆われた夏の山寺で、蝉は執拗に鳴いていますが、その声はやがて、固い岩石の中にさえしみ通るほどの、集中力そのものにまで高まってゆきます。岩石が蝉の声によって浸透されるというヴィジョンは、通常では生じ得ない現象も、詩の空間の中ではやすやすと生じ得るという、感性の真実を示しています。

ここにあるのは、まさに清浄な静けさであります。芭蕉はその静けさにひたすら聴き入っています。彼はここでは、聴き入る行為そのもの、自己集中力そのものになっていて、すでに何を聴いているのかという理性的識別さえ超越した、内的空間に漂っています。

この内的空間とは、まことに矛盾した言い方のようですが、一種の集中的放心の空間、そして瞑想の空間です。

たしかに、心の世界には、「集中」と「放心」が決して矛盾せず、むしろ互いが互いの鏡となっているような、ひとつの空間があります。「詩人」とよばれる種族が呼吸しているのは、昔も今も、まさにこの心の空間の空気にほかなりません。

大岡信『日本の詩歌 その骨組みと素肌』
2019.1.11

塵や砂が動くのを

世界は広い、どこまでも広い。遠くまで見えるところに行かなくても、真逆のような方法で、それを実感できることもある。例えば、ほんの微かな、小さな世界を見つけた時、この世界の広さを思い知る。

雪解の水たまりある歩道にてみづにかすかの塵動きをり

佐藤佐太郎

かがまりて見つつかなしもしみじみと水湧き居れば砂動くかな

斎藤茂吉

焦点を定め、塵や砂が動くのを見つめている時、心は宙に浮く。(その時、心は、どこにもありどこにもない、かもしれない。)

2019.1.2

新年

大晦日に歯が取れた。正確には歯の被せ物というのだろうか? ほとんど限界近くまで削ってしまっている歯なので、その被せ物が取れてしまうと、歯が丸々1本抜けているような状態になる。前歯だ。ちょうど娘も、乳歯と永久歯の生えかえ中で、前歯が抜けている。仲間だね、と言われる。

どれくらい治療費がかかるのかと怯えながら年を越すのか。いや、気持ちを切り替えるのだ。わかっている。気持ちを切り替えよう。忘れた頃に、子供たちが面白がって、からかう。

夜9時前には眠くなって寝た。朝が来た。元日、スケートリンクに出かける。子供たちにとって人生で初めてのアイススケート。私自身も10年ぶりくらいの初心者だ。ネットでスケートの滑り方を予習してから出かけた。こうして新年を迎えることができる幸運に感謝する。

2018.12.30

若くない

私はもう若くない。若さというものは、実年齢に関係なく、本人が「若くない」と意識するようになったら、もうそういうものなのだ。若い時は考えていた。自分がどのように年を取っていくのだろうかと。年を取るって素敵なことだろう、と気楽に思っていた。だが実際は、そうでもない。体力や気力や肌の衰えを実感することが、良い気分なわけない。

ここ1年くらいで、強く意識するようになった。もう若くない。本当はもうとっくに過ぎ去っていたはずなのかもしれないが、今さらに思う。あれもこれも過ぎ去ってしまい、一度過ぎ去ってしまったものは、もう、戻ってくることはない。

7歳の娘は今年から小学校に通うようになった。知性らしきものも見えてきた。言葉も増える。普段の私の間の抜けた言動に、厳しい意見を言ったりもする。子供らしく極端な論調で責め立ててくることもある。大人なら、冷静に諭す言葉を見つけるのかもしれない。だが、頭の回転の遅い私は、言葉に詰り、「んー」とか「や、や」しか出てこない。

頭の回転が遅い、というより、それ、もう止まっているんじゃないかって思うこと、よくある。

4歳になったばかりの息子も、だんだんまともなことを喋るようになってきた。ほとんどわけのわからないことばかりなので、甘く見て、いい加減な返事ばかりしていると、不意に矛盾点を突かれて、焦ることがある。

息子は掛け布団に名前を付けたりしている。ネーミングセンスが謎めいている。お気に入りの布団は「やあす」で、他には、「ゆうすちゃんねる」とか「しょおのみいなさん」とか「ちゃんねるちゃんねる」とか。よくわからないが、名前を連呼しながら布団と戯れている。布団をベランダに干すと、大泣きする。

2018.12.28

定型

定型詩型は、つねに、その型へと、あらゆる内容を還元せねばならぬ、集約せねばならぬという意味では、日常語の自然なリズムと闘い、それを断ち切り、また強引に接続するというエネルギッシュな作業を、詩人に要求するものではありませんか。定型は、その意味では、かたちの上から、外から、非日常的な詩の世界を支えるバネ仕掛のワクともいえましょう。

古代においても、中世にあっても、短歌は、現代と変わらぬ、むつかしさを抱えていたとみるべきではないでしょうか。日常語の世界から、一つ飛躍したところに短歌の世界はある。しかし、それは、日常語の世界に単に反してあるのではなく、そこに基礎を置いて、そこの世界のささやきがおのずから叫びにまで高まり煮つまるかたちをとって、(反日常ではなく)非日常的世界へと昇華するのではないでしょうか。

岡井隆『現代短歌入門』
2018.12.27

言葉と音

言葉には何かを打つ音がある。連なって重なって、絵画が動き出すような熱となって。

その秘密の一端に触れることができるかもしれないと思い、俳句や短歌の入門書のようなものを4、5冊くらい読んでみた。基本的なことすら勉強不足な自分にとって面白い読書になった。

尾崎左永子の『現代短歌入門』が面白い。著者がどのような人物かも知らずに、無知な私が手に取った本であったのだが、数ページ読み、簡潔で明晰な文章の良さに惹かれた。短歌の話以前に、その文体に感銘を受けた。なるほど、この著者は歌人であり、師は佐藤佐太郎であり、さらにその師は斎藤茂吉。トラッドな系譜。

もちろん軸となるのは短歌の話だが、言葉についての考察は、文学一般にも通ずるはず。語感、音韻、律、声調。切れ味と重み。培った経験のなかで確信を得た信念のようなものがあって、それが無駄なく切れの良い明快な文体によって、押し付けがましくもなく、論理の飛躍もなく、適度な温感で伝わってくるように思う。

冒頭のほうで、佐藤佐太郎の門下に加わった経緯があった。そのあたりの話も印象に残り興味深かった。終戦前後の頃、まだ近代文学の残光が、どこか背景の隅のほうにでも漂っている、そんな時代だったのかもしれない。

2018.12.22

切れ味と重み

そして、この「切れ味」を支えるのが、作品の底に存在する「重み」である。

切れ味のいいのはよいが、ただ鋭いだけでは、人の心に一瞬のインパクトを与えても、じっくりと存在感を感じさせることはない。いくらさわやかに風が吹き、透明な光が漂うとしても、それだけでは私の好みは満足しないだろう。たとえば、明かるい風の中に夕光がさし、乾いた道に小石がひとつ、影を曳いて転がっている、その存在感のようなもの。無言の存在感のようなもの。作品の底には、いつもそういう重石が必要であるような気がする。

尾崎左永子『現代短歌入門』