歓喜して生きよ
歓喜して生きよ、と打ったら、「換気して生きよ」と変換されて出てきた。確かに換気も大切である。 自分という人間は何なんだろう、と真面目に考えることはないが、たまたま自分自身を見つめ直す機会が最近あった。 部屋の片付けだ。普段使っていないものが積まれていて物置のようになっている部屋があった。最近その部屋を整理したのだ。 娘がもうすぐ中学3年だし、勉強机とか置けるスペースをどこかに確保しなければならない、という理由で、妻が先頭に立って我が家の一大プロジェクトとして、 数週間かけて物置部屋を整理したのだ。捨てることができずに取っておいたモノ、モノ、モノ。 物には記憶が宿っている。陳腐な言い回しだが事実だ。 新婚時代に買った家具。昔使っていた携帯電話。いつか使うときが来るかもしれない何かの部品。 整理されずに煩雑に仕舞い込んであった写真の数々。 若かった頃の自分の写真を見るのは何とも言えない気持ちになる。 自分ではそれほど変わっていないつもりでも、写真はリアルだ。今の私は一体誰だ? 子供たちに写真を見せる。父さんにも若者だった頃があったのだよ! もう着ることもないだろうって服が次から次へと出てきた。さよなら90年代。20年以上前に買ったスーツも処分した。 沢山のCDも売ってしまった。そもそもこの家にCDプレーヤーはもう無かったのだ。 本も片付けることにした。本当に取っておきたい本だけを手元に残しておくことにする。自分にとって大切なものとは何か? しかしどれだけ大切であっても諦めたのが中学生の頃に購入したチャップリンの本。 思い入れの深い本であったはずだが、変色も傷みもひどく、さすがにもう諦めた。 中学生の頃、チャップリンに憧れていた。コメディが好きで、それは自分にとって確かなものだといえるもので、その本質はずっと変わっていないと思う。 10代の頃を思い出す品も色々残っていた。しかし懐かしい気持ちは、過去を振り返るのは、何故に後ろめたい思いがするのだろう。 ああ、よくここまで生きてきた。ありとあらゆる幸運に感謝したい。 まだ人生は続く。続くように、生き抜いていかなければならない。 朝、音読をしている。活字には力がこもっている。活力が湧いてくるように。
青空のように
5月のように
みんなが
みんなで
愉快に生きよう
竹内浩三の詩『五月のように』より抜粋